365日

うつ病、適応障害、パニック障害と生きてる20代。

#1 ブログ

初めまして。

 

ブログを書くのはいつぶりかな。

中学生の頃にアメブロが流行ってその頃にブログ更新してたりしてた。

今回ブログを始めたのは、特に理由はないがメモとして何か日記のように残しておこうと思ったから。

文章書くのが苦手なので読みづらかったらごめんなさい。

 

 

とりあえず私のことから。

元々ネガティブ思考な私。

高校の時は電車通学だったのだが田舎だったため一時間に一本しかない快速電車に乗るしかなかった。

高校に入って最初の一年しばらくした頃、電車に乗ると気分が悪くなったりお腹が痛くなったりするようになった。

快速だったため一駅発車すると学校の最寄りまで15分近く止まらない。

その15分がの1分1秒が長く感じた。

日に日に悪化し電車に乗ると動悸がする。今にも吐きそう。

途中下車を繰り返したり一本遅い電車(もちろん遅刻)に乗るなどを繰り返していたら留年。病院からはパニック障害と診断された。

 

それから進学のため関西に出てきた。

19歳あたりで飛行機や新幹線、特急列車に乗れるようになる。

パニック障害は治ったと思ったが、ある日突然帰省する時に特急列車に乗ると気分悪くなった。吐きそう。今すぐにでも降りたい。けど特急はなかなか止まってくれない。

仕方がないので普通電車を乗り継いで5時間以上掛けて帰省した。

それから新快速など5分以上駅を通過する電車には乗れなくなった。

また私は精神科に頼った。貰ったのはセパゾンという抗不安薬

今では体調がいい時は快速や帰省時の特急には乗れるようになった。

 

 

現在22歳。

私は今でも両親に甘えて生きている。

バイトはしていたが家賃光熱費生活費は出してもらって、病気にも理解があり恵まれた環境にいる。

 

2017年の9月にうつと診断される。

その頃はパニック障害の症状は落ち着いてはいたが、精神的にどん底に落ちていた。

あれだけ好きだったジャニーズの番組も見なくなり、春から毎日夜~朝方までしていたネトゲにも興味が向かなくなった。

けどバイトは続けていた。バイト先の人達には病気のことは隠していたが皆温かくて助かった。

この頃から眠剤を飲み夜中に外を徘徊したりしていた。今思えばアホなことしてるなあと我ながら思う。

 

 

11月のある日、心の何処かでぷつんと糸が切れてしまった。

死ぬつもりはなかったけどこの状況から逃げたかった。苦しかった。もうどうでもよくなった。正直言えばこのまま死んでもよかった。

今までベランダの下を見ても怖いとしか思わなかったのに、ふっと飛び降りてしまった。

落ちた瞬間の痛みは今でも覚えている。

夜中に搬送されたにも関わらず、朝には田舎から両親が飛んできてくれた。

飛び降りた時部屋に妹が寝ていたのに妹も救急車に同乗してくれた。

家族、バイト先、友達。近隣住民。救急隊の人や警察官、いろいろな人に迷惑をかけた。

最初は痛みで何も考えられなかったが、朝の4時、初療室のベッドで自分のやってしまったことの重大さに気付いて思わず泣いてしまった。看護師さんごめんなさい。

入院先で素敵なお医者さんや理学療法士さん作業療法士さんに出会って生きててよかった、と思えるようになってきた。

今でもその人たちのことを思い出す。

 

急性期病院でまだ受傷して2週間あたりのころ、ベッド上安静の私に夕方巡回の看護師さんがやってきた。

「今日は夕焼けがとっても綺麗だよ。ここからの眺めは本当すごいよ」って。

時間を掛けて夕焼けが見える位置まで移動した。とっても綺麗だった。

その時の撮ったその夕焼けの写真は今部屋に飾っている。

 

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自分で飛び降りたのに、事故じゃないのに、皆仕事とは言え優しくしてくれて人ってこんなに温かいんだって思った。

同じ病室のおばあちゃんが「一緒に頑張りましょうね」って声をかけてくれたことも嬉しかった。

あのおばあちゃん、元気にしてるかな。

 

 

退院して今、精神的に波はあるがもう自殺未遂なんてしないだろう。

何故ならお世話になった人たちの名前や顔が浮かぶから。

私が退院後久々に電話をした友達が泣いてくれたから。

こんなクズでも心配してくれる人がいたから。

通院して主治医と薬を調整してなんとか生きています。

今のメンタルクリニックでよかったと思える先生でよかった。

 

 

ぐだぐだな文章になってしまってすみません。

気が向いたらまた更新します。